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九年目の朝(8)

                             (拙書より)

母がたびたび通い詰め当人が言うように胸が軽くなったのが本当ならば、少な

くとも彼が荒れるのは解せない。母側の事情はたくさん聞いたけれど、彼につい

て私が問いかけたことの少なさを、彼との関わりに及び腰だからだとあらぬ呵責

を感じた。そして、二月も末になり公立高の入試時期になった。私の意識の中で

彼はさらに遠退き、公立の合格で共室は華やぎ、空の匂いは春めいた。

ひさびさの余裕に草花を楽しんでいたとき、電話が鳴った。手の土を払って摘み

上げた受話器は無言だった。とっさに「尾崎君ね」と言葉が飛び出した。「文哉君

でしょ?」。耳に押し当てた受話器の向こうは、人の気配が薄かった。数秒無言

の後で冷ややかに受話器のおかれた音がした。数日後、同じ昼過ぎに同じよう

な無言が数秒続き私もまた、同じ口調で名を呼んだ。ひと呼吸後、耳を疑うこと

になる。

「失礼ですが、あの人と父の悪口を言い合うのはやめてください」

それだけで切れた電話の前で、謂れのない羞恥心に身の置き所を失っていた。

恥ずかしさのもとは自分の思い込みだった。その母が渡したという手紙で、いつ

か拒否ではない電話か手紙が来ると思っていた。自惚れが砕け散った間の悪さ

がやり場なく尾を引く。

裏表なく純粋に大切だと思えば他人の子でも心は通う…。それがなまじな信念に

なると醜悪だ。そもそも「信念」など独り善がりの親玉みたいなものである。相手

が子どもであれ大人であれ、真にその人の心地よさ(あえて幸せという言い方で

はない表現をしたい)を願うならば、その人の本心を聴き取ることから始めなけ

ればならない。本心を『聴き取る』ためには半端な知識ほど邪魔なものはないし、

ましてや無意識であってさえ、自分の願望、自分の想像、自分の心地よさのため

に連想していることを相手のためだと錯覚する者には、それらがすべて壁になって

なにひとつ見えなくしてしまう。透明でなければならない。無心でなければならない。

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