九年目の朝(2)
(拙書より)
遅い午後の小さな駅は人気がなくて、ホームの端のベンチは格好の場所に思
えた。坐るなりハンカチで顔を覆った彼女の嗚咽は、ありきたりな問いかけをた
めらわせる。私は所在なくただ彼女の背を摩っていた。痛ましさは湧いても、考
える材料も労わる種もない。
「すみません…」
もっと泣いていたいけれどもう切り上げなければというように、抑制した声で顔を
上げ、「ひきこもりって言うんですか、文哉…。もう、二年以上です」と、空虚な口
調で言った。
尾崎文哉君は優秀児だった。いわゆる成績のよい子である。ただ私の尺度で言
えば、少し不安を感じさせる子だった。普段から、受験に向っての緊張とは異なる
緊迫感をまとっていて、自我を抑え込んだ不自然な行儀良さが一緒にいる者まで
寛がせなかった。成績のよい子のなかには好成績を維持しなくてはと肩の力が抜
けなくて、余裕や弾力性を失っている子もいるが、そうした子にはなるべく早めに
冗談やまぜっかえしで、張り詰めたものを吐かせてしまう。そうしないと次の吸収
ができなくなる。しかし彼の場合は、余計な冗談などで集中力を殺いでくれるなと
いう厳とした拒否が漂っていて、迂闊なことはできなかった。ただ試験当日の朝、私
は電話をかけた。
「試験場へ入ったら、まずぐるっと見回すのよ。へえ、こいつら気の毒になぁ、俺と一
緒に入学式出られるの半分かぁって。そう思っただけで、プラス十点よ。分かった?」
「はい。分りました。ありがとうございました」
その声が一瞬涙声に聞えてはっとしたのだが、第一志望高に合格した後、彼は退室
して、その時の記憶も薄れていった。事あえて何があったという訳ではなかったから、
その母とは入退室の折り二度しか会っていないことになる。
予想もしなかった「ひきこもり」などと聞かされて絶句した私は、その頃の正体に顔を
殴られた気がしていた。
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