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2007年12月

雪崩のあとさき(12)

                                (拙書より)

「わあ!どうしたの?すごい大根!」

「ウチ、畑やってます。広志、土いじりすきだから。葉も食べてください。無農薬

です」

もらった側の私よりいそいそと、ずしりと重い大根を手渡した。

「あの、たぶん、まだたぶんだけど、俺、修学旅行、行けると思います」

「まあ!本当?」

応えながら、「どこにも行ったことがない」としゃくりあげた日がズキンと蘇った。

弟がなついていると言っていた、隣のおばさんのお陰だろうかと、見知らぬ人

に感謝した。

「それと、あの、俺、B高狙ってみます」

「えっ!ほーんと?すごーい、C高より上じゃない!」

あの日たくさん泣いたのは、小さな孝ちゃんだった。少し大きな孝ちゃんは嗚咽

を噛み殺した。大きな孝一君は、噛み締めた奥歯から切れ切れに、うめきに近

いいくつかの言葉を搾り出した。

「父さん『なんだこの成績は!C高も行けないだろ!父さん、こんなみっともない

通信簿もらったことない!』って言った」

そう言いながらすぐ、その父をかばった。

「父さん、海外ばかり行ってる。忙しくて疲れてるんだ。だから癇癪起こすんだ」

母のことはもっとかばった。

「母さん大変なんだ。ときどき、すごくかわいそうなんだ」

だから俺しっかりしなくちゃなんだ…うめきの底から、そう聞えた。

あの日からわずか一週間目の彼は、漲るような気力をこめて志望校の名を言

った。

「うん、がんばろ!B高だってA高だって、あなたなら大丈夫よ」

…小さいときから、お母さんやお父さんまでかばってオニイチャンをやってきた

だもの…、あなたにできないことなんて、ないわよね…。

私は麓で雪山を見上げる者に似ていた。雪の量を誇らず恨まず、山はそこに

在る。だから人は惹かれるのだろう。

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雪崩のあとさき(11)

                      (拙書より)

「孝ちゃん、泣かない、もう泣かない」

私は不器用に、そのときの彼にはあまりに不似合いな大きな背中を摩っていた。

聴き取れない言葉と、知らない子の名前と「父さん」「母さん」が混じり、歯を食い

しばって「ボクガマン、ボクオニイチャン」を搾り出す。そのたび背中が引きつった。

時間も場所も、壊れてしまった。

私たちは、幼稚園の砂場でユキオ君に壊されたトンネルを一緒に作り直した。「ボ

クね、ケンカしないんだよ。お母さん困るから」「えらいわね、ホラ、もう直った」

広場で新しい自転車を乗り回すタケちゃんを見て「ボクね、オニイチャンだからガマ

ンするんだよ」「えらいなぁ…。きっと、孝ちゃんにもお父さん買ってくれるわよ」「そう

だよね、買ってって言わなくても、ね。だからボク、ガマンする」

家族で出かけるマキちゃんを見送った。「ボク、行けなくても泣かないんだよ。オニ

イチャンだからね、オニイチャンは泣いちゃいけないんだよ」

ハルキ君の子犬を触らせてもらった。「ボク忙しいんだ。広志とか見てあげなくちゃ

でしょ。だからね、子犬面倒見られないからね」

「孝ちゃん、泣かない、きっとお母さん猫が探しにきてくれる。だから公園へ帰してあ

げようね」。拾った子猫を捨てに行った。

二人が共室に「戻った」のは夕暮れだった。

日曜から日曜までの間の二回の共室は、私たちの照れ臭さを和らげるには、恰好

場になった。肩越しに英訳のヒントを伝え、隣の子のだじゃれを笑い合う。一緒に

いた記憶は、面と向い合わないで会えるチャンスの中で、生臭さが洗われた。

四回目の日曜日、玄関を開けると同時に声がした。「センセ、コレ」。「なーに?」と近

付くと、顔の前に盛り上った緑が差し上げられている。ポリ袋から四方にあふれ出た

大根の葉だった。

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雪崩のあとさき(10)

                  (拙書より)

三度目の日曜日、彼の着きそうな時間に、開けた窓から大きな雨粒が飛び込

んでくる。「わっ!」と言いながら駆け寄って、閉めた窓ガラス越しに雲を探した

が一切れも見当たらない。「キツネの嫁入り」とは誰が言い出したのだろうとし

ばらく空に見惚れ、それからはっとしてバスタオルを抱え込むと玄関に走った。

ほとんど同時に孝一君が飛び込んでくる。

「やられたわねっ!」と頭からタオルを被せた。被せたついでにかたちだけ頭を

拭きながら、すぐに伸びてくるはずの手を待った。プライドの高い中学生は、気

安く触られるのが嫌いなはずだ。でも、引っ込めるつもりの私の手は、引くタイ

ミングを失った。彼は突っ立ったまま拭かれている。妙に照れ臭くなって「はい

っ!後ろ向く!」と幼児扱いすると、本当に幼い子のように小刻みに歩を回して

後ろ向きになった。肩や背中をタオルで叩きながら、予想外な態度に内心うろた

え気味の私は「ったく、思いっきり伸びたもんね」などと軽口で間を埋めた。もう

拭くところがなくなっても、孝一君は棒立ちのままだ。

「お、わ、り」と言うと、呆けたようにスタスタと席に向った。釣られて私もタオルを

持ったまま後を追う。

「明日、ディズニーランド、行きます」

机の前に立ったまま、セリフを棒読みするように言った。空中の一点を凝視して

いる。言葉は明瞭でも、様子が変だ。私は横に突っ立ってただ顔を見ていた。

「俺、行ったこと、ない、のに、弟行きます」

途切れとぎれにそれだけ言うと、力が抜けたようにドスンと坐った。繋がれた品

物のように、私までストンと並んで坐った。

「タケちゃんは二回、も、行ったんだ」

孝一君は机の上に、握り締めたこぶしを二つ、押し付けるように置いた。

「タケちゃん、広志いじめたとき、俺、殴った。そしたら、父さんに、殴られた。母

さんは、なにも、聞いて、くれない」

言葉がブツブツ切れて、「母さん」のところで声がうわずった。

「ユタカ君、なんか!」

並べたこぶしで机を押し潰しそうにしながら、悲鳴に近い声を上げた。声と一緒に

大粒の涙があふれ落ちた。ヒクッとしゃくり上げる声がすると、のしかかるようにし

ている机の上やこぶしに、涙がポトポト落ちた。目の前にいる子は、中学生ではな

かった。

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雪崩のあとさき(9)

                    (拙書より)

思いを振り切るように声がした。

「うん、いいわよ。あのね、途中で話したくなったら、おしゃべりして。急にしゃべ

っても、全然びっくりしない。いっつも孝一君ペースでいい。眠かったら寝てもい

い。枕、出してあげる」

「枕」で、彼は目を見張り、少し笑った。そして、うっかりこぼした笑みを払うよう

に口元を引き締め、真新しいノートを開いた。

数学は、苦手な子のほとんどが躓くところで躓いていた。分数、四則計算、括弧

の扱い…。説明すると呑み込みは速く、注意には忠実で、みるみるいくつかの計

算をこなせるようになった。「面白いでしょ」と言うと、じっと机の端を見詰めていた

子とは別人のように晴れやかな顔を上げて「はい」と答えた。

共室でも二度目の日曜日にも、彼は計算に熱中していた。その集中力は、学力

不振の原因が注意力散漫にあるのではないと確信を持たせる。楽しそうにすら

見える彼の取り組みを見ていると、基礎の欠落が自信も興味も失わせたという、

よくある理由に思い当たる。

基礎学力という言葉はよく言われるが、子どもの側からは、どんなことを指してい

るのかほとんど分からない。しかも、どの学年ぶんのどんな基礎かは、なお不明

だ。「関数」が分からないと困っている子の躓きが、分数のせいだったという笑え

ない発見に何度も出会った。たった五、六個の助動詞が原因で英語に自信を失

う子、県名を覚えていないだけで地理は苦手だと思い込む子、そうした子たちを

「勉強ができない」という一括りの中に押し込んで、どこで引っかかっているのか

を探してやることもせず、ただ「勉強をしなさい」と繰り返すことの不当さに、怒り

を覚えることが少なくない。

孝一君の中にどんな屈折したものがあるにせよ、少なくとも学力を引き上げる手

がかりは見つかった思いで、勉強を手伝うのが楽しみになった。

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雪崩のあとさき(8)

                    (拙書より)

「ね、バッグの大荷物、教科書?問題集?」

私は重くなった空気を払いたくて、陽気な声をかけた。

「山谷先輩に、聞きました。あ、あの」

返事の代わりに彼は、初日そっくりに言いかけ、そっくりにプツンと切った。

「ん?…。山谷君、なに言ったのかな。今日は聞こうっと。時間たっぷりあるしね。

さあなんだろ…。そっか、分かった、鬼婆って言ったでしょ。シゴいたからなぁ、受

験間際」

「い、いえ、違います。あ、あの、先輩…言いました、ずっとしゃべってたって、勉強

より多かったって、でも、成績上がったって、魔法だって…」

孝一君は訴えるような目をして一生懸命言い続け、もっと言葉を探して必死に視線

を泳がせた。続く言葉が出てこないことに焦って、しきりに瞬きえおすると大きな溜

息をついた。

「なあんだ山谷君バラしたんだぁ…、そうなのよ。実は魔法使いのババアだったの。

呪文でみんなの成績上げちゃう…って、なりたいなぁ…。ホーント。ん、いいのよ、お

しゃべりしても。しゃべるのって大事よね。言いたいことあんまり溜め込んでると、心

だって便秘になるもの…。そしたらもう食欲なんて出ないよね…」

彼は乗り出すようにして聞き終えると、上半身全部で溜息を吐き出し、机の端をじっ

と見詰めている。

「山谷君…だけじゃなくて…登校拒否って…思いが詰まって、心の交通マヒだって思

うんだぁ…。登校拒否じゃなくても、そういうの辛いよね…」

私は彼から視線を逸らして、ぼそぼそと独り言をもらした。開け放した窓から小さな風

が流れ込んで、ふとできた間を崩すと、

「数学、教えて、ください」

思いを振り切るように声がした。

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雪崩のあとさき(7)

                     (拙書より)

私は家族欄を思い浮かべた。弟は中学一年、小学四年の二人で、後を追って

泣くかもしれない小学一年の子は、たしか妹だったはず…。

「弟って、四年生の弟さん?」

いえ、すぐ下、です」

中学生の?と声にしなかったのに、彼は続けた。

「いつもです。でも、俺、長男だから」

どうも腑に落ちない。

「あ、弟、ヨウゴです。でも、少し助かってます。隣のおばさん越してきたから」

ヨウゴを急いで「養護」に変換し、さらに「養護学級」にすると、真っ先に納得でき

たのは初日の母の落ち着かなさだった。同時に、しばらく尾を引いた自分への不

審も少し解消した気がした。不審はそのときの「先に帰っていいよ」と言った彼の

声からだった。労わるような優しさのずっと奥に、なぜ哀しさを感じたのだろうと、

しばらく不思議でならなかった。

「そう…。ね、逃げたって言ったよね。これから日曜のたびにそれって大変でしょ

う?あのね、時間のことだけど、弟さん…広志君…だっけ、彼に合わせない?二

時からじゃなくてもいいわよ。その日の都合で、早く着いてもいい。三時になって

もいい。そこから、二時間に、しよ?」

「あ、でもいいです。ずっと、だったから…」

孝一君は下を向いて、抑揚のない答え方をした。

「でも、私、心配だもん。焦って自転車漕いで、事故ってないかなとか、泣かれて孝

一君も泣きそうじゃないかなとか、顔見るまで落ち着かないもの。ね、そうしよ?」

彼はゆっくり顔を上げると、こちらが気後れするほどマジマジと私を見詰めた。

「ね、そうしよ?」と、もう一度言うと「すみません」と小さく呟き、それからそっと溜息

をついた。

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雪崩のあとさき(6)

                      (拙書より)

翌日、孝一君は七時ぴったりに、大き過ぎる体を憚るような姿勢で、そっと入っ

てきた。「こんばんは」と言うと「はい」と答え、慌てて「こんばんは」と言い直した。

まだ誰もいない共室で、すわる場所に戸惑いそうなので「好きなトコ坐って。決ま

ってないの」と声をかけると、入り口から死角になる隅にそっと坐った。ゆったり

したトレーナーを着ていたぶん、見ている私のほうがホッとする。

一人、二人と、馴染んだ子どもたちが入ってくる。入り口からは死角でも、大きな

新入り君に気づかない者はいない。それでも中学生たちは気づかない顔をする。

近頃は、ウケを狙ったり、安易に常識的な行為に従う子が増えてきて、こんな場

面では紹介したりされたりを心待ちにする子もいる。しかし相当数の中学生が本

音の部分では、わざとらしい挨拶を経ないで自然に溶け込むことのほうが、ずっ

と高級だと思っている。理屈抜きに、照れ臭いことはなるべく避けたい思いもある。

だから共室では、ほとんど紹介はしない。そのかわり折を選んで、少し意識的に

名を呼んだり、会話の中に学校名を入れたりする。

「ねえ、松井君、A中って三年生何人いるの?」という具合に。あるいは松井君の

ために、「島田君、S中はまだテスト範囲教えないの?」などと。

山口孝一君のためには、初日なにも言わずにそっとしておくほうがずっと相応し

い気がして、その夜はさりげなく一、二度「分かる?」と、書き込んでいた数学の

プリントを覗いただけにした。

個人指導の初日は、朝からよく晴れていた。千葉県では四月の初めでも暑いほ

どの日がある。彼の希望で決めた午後2時からの時間は、ニ十分以上も自転車

を漕げば汗ばむだろうと思われた。氷水でも用意しておこうと製氷皿を取り出し

たとき、勢い込んで入ってきた。

「す、すみません、遅れました」

大きなスポーツバッグを下げて、額に汗を浮かせている。

「大丈夫よ、まだ5分も過ぎてないわよ。はい、顔拭いて」、オシボリを差し出すと

「はい」と受け取ったのに机において、手で額を拭いた。大きなグラスに氷水を入

れて、黙って机におくと黙って会釈した。そして気忙しくスポーツバッグを引き寄せ

て、ジッパーを引き開けた。

「何、そんなに、いっぱい持ってきたの?」

初日の緊張だけではなさそうな焦っている素振りに、私はことさらのんびりした声

を出して、机越しにバッグを覗き込む。

「あ、えっと、五教科、です。全部悪いから」

「ね、それより、家から自転車で何分かかった?」

「あ、わかりません、弟、泣いて…、んで、逃げたから」

え?と目で問うと、下を向いて「いつもです」と、複雑な顔をする。

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雪崩のあとさき(5)

                                          (拙書より)

机の上に乗せた腕が裄丈の合わなくなった制服からむき出して、張り詰めて

破れそうな背中とともに急激な成長を思わせ、微笑ましさとうら哀しさの混じっ

た思いにさせる。彼の中の何が、何をためらわせているのだろうと思いながら

私はそっと席をたった。

申込書は簡単に作ってある。住所氏名に苦手科目、部活動と家族くらい書け

ば終わる。それでも側に人がいるのは煩わしいはずだと、行かなくてもよい手

洗いに行き、戻ってみてもまだ書いていた。本棚の問題集を並べ直して振り返

っても、まだペンを置いていない。兄弟が多くて家族欄が埋らないのかと、冷

蔵庫に向った。ジュースを手に戻ると、慌てたように用紙を裏返してペンを乗せ

た。

「あ、あの、共室、火・金コースでいいですか? 明日、金曜日だから、七時に来

ます。お邪魔しました」

ジュースを差し出したときにはもう立ち上がり、会釈もそこそこに体に似合わぬ

素早さで玄関を出ていった。

「さよなら」という間もなく取り残されて、所在無く手にしたジュースを口に、左手で

申込書を返した。裏返して帰った子は初めてだった。筆跡が恥ずかしかったのか

と見ると、几帳面な字が並んでいる。家族の名が欄いっぱいに七人も書き込まれ

母方の祖父と思われる名字の人もいた。

裏返しも、急に帰った理由も分からないまま、あきらめ悪く用紙を眺めていると、

族欄の下にやっと読める小さな字で「どんなペットも飼ったことがありません」

と書いてあった。家族欄の終わりに、「※ペットも」と記した自分が、ひどく残酷な

人間に思えた。飼いたくても叶えられない子のことにまで、配慮しなかったことが

責められた気がした。

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雪崩のあとさき(4)

                           (拙書より)

中学生には、手軽な物言いをしてはならない。分かっていたつもりの手から水

をこぼした。彼等の大半はとても遠慮深い。自分のせいで、大人に迷惑はかけ

られない、そんな思いを強く抱いていて、こちらがそれほど負担に思っていない

ことでも、必要以上に気遣う。気楽に請合えることさえ、ほんの一瞬のためらい

を感じ取っただけで「いや、いい」などと引っ込めたりする。実の親に対してさえ

もである。私がそう言うと、たいていの母たちはとっさに「まさか」と笑うけれど、

ご自分の子ども時代を思い返してみてと言うと、感慨深そうに「そうだったかも…」

と思い当たる人もいる。遠慮深いだけなのではなく、迷惑扱いされるくらいなら、

我慢するほうがよいというプライドも混じっている。

いずれにしても、話すならもっと細やかに伝える必要がある、そう思い直して言葉

を足した。言外の思いを察知する能力はあっても、それを曇らせるほど遠慮深い

子もいる。

「ごめんね、個人とか山谷君とかって、孝一君とイメージ重ならなかったのよ。だか

ら、勉強よっぽど心配かな、それとも特別、個人的に話したいこといっぱいあるの

かなって思ったの。迷惑なんか、ちっともないもん」

彼はペンを持ったまま机の一点をじっと見詰めた。あまり真剣な目なので、また余

計なことを言ったかと少しうろたえた。「ごめん、気にしないで」と言いそうになった

とき、彼は決然と顔を上げた。

「山谷先輩に聞きました。あ、あの」

力をこめて言い出したのに、プツリととまってしまう。そして、また机の一点を凝視

した。話したいことがほぐれて出てくるように、私は手近な書類を見るともなくめく

って、彼から気を逸らした。しかし、「あ、あの、いいです、すみません」と、思い切

るように言い、居ずまいを正すと、申込書を書き始めた。

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雪崩のあとさき(3)

                          (拙書より)

― しまった、そうか、だめか!…。

遠慮がちにすぼめていた肩まで揺らして、そう思わせる声を上げた彼に、私の

ほうが戸惑った。共室の内容やしくみをどんなふうに聞いたにしても、近所なら

ば山谷君が不登校だったことは知っていたはずだ。にもかかわらず学校へ行

っている自分の時間帯を検討せずに「個人指導」と思い詰めていたのだとした

ら、なにかよほどの思いがあるのかもしれない。

「わかった。じゃあ、日曜日、来る?」

とっさに言いながら胸の隅で、しまったと少し悔いた。こんな調子でしょっちゅう

休日が消える。

「あ、あの、共室もお願いします」

勢い込んで言えば日曜日を取り消されないですむと思ったような、畳みかける

口調だった。自分でもそう思い当たったらしく、言い終わってから気の毒なほど

照れた。クスクス笑っている私を振り払うように「申込書ください」と、早口にな

る。まだ笑いながら手渡すと、書面をじっと見て「これ、親が書かないとだめで

すか」と訊いた。気忙しげに帰った母親を思い出して「いいのよ、あなたでも」と

ペンを渡すと、アグラから正座に戻って背を屈めた。

電話で聞いていたコウイチが「孝一」と記されたとき、改めて声をかけた。

「ねえ、お母さんの電話だと、受験が心配だって。でも、まだ丸一年もあるじゃ

ない?共室の週二回で間に合うと思うけど、孝一君それだけじゃ不安なの?」

これもそれほど重い意味をこめたつもりのない話しかけだったのに、彼はさっ

と頭を上げると、

「あのー、日曜日、迷惑ですか?」と、真剣な目を向けた。

「そ、そんなことない、ないない、それ、ない」

私は大慌てで首を振った。

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