九年目の朝(15)
(拙書より)
「祖父に逆らい切れなかったんだと思うんです。彼は絵描きになりたかった…。
受験の少し前に伯父から聞きました。自分が美大に願書出したときは、俺、そ
れが自分の気持ちだと思っていました。でも違ってた。父のぶんだった、たぶん。
いまは自分で自分が判ってると思います。同じ道のようでも動機が違う」
翌春、彼はデザインスクールに入った。
そして二年後の三月初め、私は早朝から念入りに共室の掃除を始めた。早過ぎ
る時間に支度が整ってしまうと所在なくて、あまり汚れていないガラスまで磨いた。
サイフォンにコーヒーをセットし、チーズケーキ用の取って置きの皿を確かめた。
八時ちょうどにブザーが鳴ると、駆け出しそうな自分を抑えながら、不覚な涙だけ
は禁物だと涙腺にしっかりとブレーキをかけて玄関を開けた。
「わあ、伸び過ぎ! 八年で三十センチってないよ。見下ろすな」
「じゃぁ、早く坐ります」
長身を折り畳むように坐った青年は、電話の向こうでずっと中学生だった文哉君
のはずはなかった。長めの前髪を掻き揚げて向けた瞳には、青年の謙虚さと壮
年の思慮深さが同席して見えた。ブレーキをかけたはずの涙腺が危ない。どうし
ても滲んできそうな涙を止めなければならない。そう思ったとき、自分でも予想だ
にしなかった言葉が流れ出た。
「十五分しかないのよね? すぐ行かないとね。就職先まで三十分でしょ?初出
勤バンザーイ、オメデトウ!次の目標、二科展入賞? そしたらお父さんに会い
に行くんでしょ?」
(九年目の朝…おわり)
※ 「第三の人生」なのだろうと、深い感動の中で、近付いた引越しに向けた荷
造りに追われています。
25年来の心友(彼女にしか使ったことのない称号)と暮らせる日々は、聖地
への旅立ちを思わせて、時々刻々浮世の汚れを脱いでいます。
しばらく休止させて頂き、聖地からの再開をと思っています。
みなさま、どうぞお元気で…。
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